人的資本経営の開示項目|健康の指標と算出方法【2026年改訂版】
- 産業保健
人的資本経営の開示項目|健康の指標と算出方法【2026年改訂版】
「人的資本経営の開示項目のうち健康分野では、健診受診率やストレスチェック実施率を開示するのが一般的」——検索するとこうした指標名が並びます。
ところが実際に手を動かすと以下の疑問が浮かび、手が止まってしまうのではないでしょうか。
「受診率の分母は何にするのか」
「休職率は何日以上の休みから含めるのか」
「部署別に出しても問題ないのか」
そして人的資本経営に関する開示項目の基準である「人的資本可視化指針(内閣官房・金融庁・経済産業省)」を確認しても、健診受診率という言葉は見つかりません。
健康分野の開示項目を整理するうえで軸になるのは、指標名を集めることではありません。指針が実際に何を例示しているのかを押さえ、そのうえで自社が日々生んでいるデータを、どの開示事項の裏づけとして使うのかを決めるという順序です。
本記事では、可視化指針が例示している健康・安全の開示事項、労働災害と産業保健それぞれの指標の算出方法、部署別データを扱う際の法令上の制約、そして投資家に伝わる指標の組み合わせ方を解説します。
本記事を読み終える頃には、自社が持っているデータのどれが開示に使えるのかを見分けられるようになり、分母を決めて社内に集計を依頼できる状態へ進んでいるはずです。
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人的資本経営の開示項目で「健康」に求められること

人的資本可視化指針(改訂版)の付録②では、健康・安全は「Conditions(労働・職場環境)」の開示事項例として整理されています。この分類体系は、ISSBが2025年10月時点で検討中の分類案を参考にしたもので、基準開発の方向性が確定したものではありません。一方、有価証券報告書には健康・安全専用の独立した記載欄はなく、特定の指標が一律に指定されているわけでもありません。
健康・安全をどの文脈で、どの指標を用いて説明するかは、自社の重要なリスク・機会や人材戦略に応じて設計することが出発点です。
制度として求められていること
有価証券報告書で人材に関して求められる記載は、大きく2つに分かれます。
1つ目は、2026年2月20日に公布・施行された「企業内容等の開示に関する内閣府令」等の改正で新設された記載欄です。開示府令第二号様式に「人材戦略に関する基本方針等」の欄が置かれ、次の3点の記載が求められます。
- ・連結ベースの企業戦略と関連付けた人材戦略
- ・従業員給与等の決定方針
- ・提出会社の従業員の平均給与の対前年比増減率
適用されるのは、令和8年(2026年)3月31日以後に終了する事業年度の有価証券報告書からです。3月決算の企業は2026年3月期が、12月決算の企業は2026年12月期が最初の対象になります。
最初の対象期が9か月ずれるため、自社がすでに対象期を終えているのか、これから迎えるのかを先に確認してください。
なお、この改正では「従業員の状況」の記載位置も変わり、「第1【企業の概況】」から「第4【提出会社の状況】」へ移動しました。前年の様式をそのまま流用すると記載場所を誤ります。
2つ目は、女性活躍推進法等に基づく3指標です。以下の指標を公表している会社およびその連結子会社は、これらを有価証券報告書等にも記載することが求められます。
- ・女性管理職比率
- ・男性の育児休業取得率
- ・男女間賃金格差
無条件の記載事項ではなく、公表対象に該当する会社が対象です。自社が該当するかを確認してください。
ここで押さえておきたいのは、健康・安全が「枠の外」にあるのではなく、「枠の中に置かれているが、指標は指定されていない」という点です。
開示府令は、人的資本に関する方針の例として「従業員の安全及び健康に関する方針等」を挙げ、その方針に関する指標の内容と、当該指標を用いた目標・実績の記載を求めています。また、人的資本可視化指針(改訂版)では、健康・安全はConditions領域の開示事項として整理されています。健康・安全を扱う場所は用意されているということです。
ただし、有価証券報告書に健康・安全専用の独立した記載欄があるわけではなく、TRIRのような特定の指標を一律に開示する義務もありません。枠は用意されているが、何を指標にするかは各社が決める。だからこそ、何をどう出すかで企業ごとの差が出ます。
参考:「企業内容等の開示に関する内閣府令及び特定有価証券の内容等の開示に関する内閣府令の一部を改正する内閣府令」等の公布及びパブリックコメントの結果について(金融庁)
参考:「企業内容等の開示に関する内閣府令」等の一部改正(案)に対するパブリックコメントの結果等の公表について(金融庁)
主要テーマの選択結果を踏まえた伝え方
自社で設計できるということは、伝わる形を自社なりに考える必要があるということです。ここで参考になるデータがあります。
生命保険協会の調査(2025年度版)は、企業のサステナビリティ活動と投資家のサステナビリティ投融資における主要テーマを、それぞれ最大5項目まで選ぶ形式で尋ねています。本設問の回答者は企業429社、サステナビリティ投融資を実施している投資家68者です。

「人的資本(ダイバーシティ含む)」を主要テーマに挙げたのは、企業88.8%、投資家51.5%。一方で「従業員の健康と安全」は、企業43.1%に対し投資家1.5%でした。
この設問では、健康・安全を独立した主要テーマとして選んだ割合が、人的資本より低い結果でした。ただし、投資家一般の健康への関心や、個別の健康指標の訴求力を直接測ったものではありません。
健康指標を人的資本や経営戦略との関係と併せて説明することは、その経営上の位置づけを明確にする一つの方法です。
なお、人的資本可視化指針付録③には、2018年のJILPT機関投資家調査を引用した別の記述もあります。生命保険協会調査とは時期・対象・設問が異なるため、両者は単純比較できません。
人的資本可視化指針が例示している健康・安全の開示事項

健康・安全の開示事項の例は、2026年5月に公表された付録②「人的資本に関する開示基準・開示事項例の整理」にまとめられています。挙げられているのは次の7つです。
- ・労働災害の種類、発生件数・割合、死亡数等
- ・安全衛生マネジメントシステム等の導入の有無、対象となる社員に関する説明
- ・(労働災害関連の)死亡率
- ・ニアミス発生率
- ・健康・安全関連取組等の説明
- ・その他(研修関連)
- ・その他(損失時間、損失日数、金銭的影響額など)
対応する基準として、SASB、日本の有価証券報告書、米国SEC規則、欧州のESRSが並べられています。
日本の有価証券報告書の欄には「人材育成方針と社内環境整備方針に関する指標の内容、当該指標を用いた目標と実績」と記載され、根拠として開示府令第二号様式の記載上の注意(30)および第三号様式の記載上の注意(10)が示されています。
ここで注意したいのは、それぞれの基準が求めているものの性質が違うという点です。
日本の有価証券報告書が求めるのは、方針に関する指標の内容とその指標を用いた目標・実績です(開示府令第二号様式の記載上の注意(30)、第三号様式の記載上の注意(10))。特定の指標名を指定するものではありません。
TRIR(総記録災害度数率)、LTIR(休業災害度数率)、NMFR(ニアミス頻度率)は、SASBが業種別に挙げている指標例です。SASB自体が各社に法的義務を課すものではなく、自社の業種で何が挙げられているかを参照する位置づけになります。
欧州のESRSでは、現行の法的適用版において健康・安全の開示要求事項はS1-14です。
2026年7月3日に採択された改訂版ではS1-13に再編されましたが、本記事の執筆時点では欧州議会・理事会の精査期間中で未発効です。
参考:人的資本可視化指針(改訂版)付録② 人的資本に関する開示基準・開示事項例の整理(内閣官房・金融庁・経済産業省)
開示基準と指標の用語を整理する
付録②に並ぶ略称は、どの国のどの枠組みかを押さえておくと読み解きやすくなります。
①開示基準・制度
- ・SASB(サステナビリティ会計基準審議会):米国発の任意の開示基準。業種ごとに指標例を挙げている点が特徴で、各社に法的義務を課すものではありません。
- ・SEC(米国証券取引委員会):米国の証券規制当局。Regulation S-Kが人的資本の開示を定めています。
- ・ESRS(欧州サステナビリティ報告基準):EUの開示基準。人的資本は「S1 自社の従業員」で扱われ、現行の法的適用版では健康・安全の指標は開示要求事項S1-14に置かれています。
- ・ISSB/SSBJ:それぞれ国際サステナビリティ基準審議会と、日本のサステナビリティ基準委員会。ガバナンス・戦略・リスク管理・指標及び目標という4つの要素に沿った開示を求める枠組みです。
②指標の略称
- ・TRIR(Total Recordable Incident Rate/総記録災害度数率):記録対象となる労働災害の発生頻度を示す国際的な指標。
- ・LTIR(Lost Time Injury Rate/休業災害度数率):休業に至った労働災害の発生頻度を示す指標。
- ・NMFR(Near Miss Frequency Rate/ニアミス頻度率):事故に至らなかった事象の発生頻度を示す指標。
2026年の改訂で再編された分類を押さえる
付録②では、従来の分類が組み替えられています。以前は分野ごとに項目が並ぶ形で、「7分野19項目」という呼び方も広く使われてきました。
現在は以下の3つの領域に再編され、健康・安全は Conditions に該当します。
- ・Composition(人材の流動性、ダイバーシティ)
- ・Capability(人材育成)
- ・Conditions(賃金、従業員エンゲージメント、健康・安全、コンプライアンス・労働慣行)
あわせて、付録②の利用上の留意点には次の一文が置かれています。
企業固有の人的資本関連のリスク及び機会、人材戦略、及びそれを踏まえた指標の検討を行うことなく、本付録に掲載されている指標を開示のチェックリストまたはテンプレートとして利用することは意図されていない。
指標の一覧を埋める作業として扱わないよう、指針の側から明示されています。付録②はあわせて、自社固有の人材戦略・人的資本投資を説明する指標を開示することが期待されているとも述べています。
労働災害に関する指標の算出方法

開示事項の例にある労働災害関連の指標は、そのまま数値化できます。指標名を決めるだけでは数字が出ないため、分母と分子をあわせて定義してください。
労働災害の件数のみを開示している例が見られますが、件数は従業員規模に左右されるため他社比較ができません。厚生労働省の労働災害動向調査で用いられている「度数率」や「強度率」を使うと、比較可能性が上がります。
そのほかにも、ニアミス発生率や安全衛生に関する研修の受講割合が労働災害に関する指標に当たります。
指標①:度数率と強度率
度数率と強度率は国内統計で用いられる指標です。以下の式で算出できます。

度数率は、100万延べ実労働時間あたりの死傷者数を示す数値です。労働災害による死傷者数を延べ実労働時間数で割り、100万を掛けて算出します。
強度率は、1,000延べ実労働時間あたりの労働損失日数を表します。労働損失日数を延べ実労働時間数で割り、1,000を掛けます。
度数率が低くても強度率が高ければ、件数は少ないが重い災害が起きていることを意味します。逆なら軽微な災害が頻発している状態です。2つを併記しないと実態が伝わりません。
なお、「人的資本可視化指針・付録②」で挙げられているTRIRやLTIRは国際的な開示基準で用いられる指標です。海外投資家との対話を想定する場合は、国内指標と国際指標を併記すると伝わりやすいでしょう。
指標②:ニアミス発生率
ニアミス発生率は、事故に至らなかった事象を拾えているかを示す指標です。
報告件数が増えることは、現場が報告しやすい状態になった結果ともいえます。そのため、件数の増減だけでなく報告制度の運用状況とあわせて説明する形が伝わります。
指標③:安全衛生に関する研修の受講割合
安全衛生に関する研修の受講割合は受講者数を対象者数で割って算出します。
対象者を全従業員にするか特定の作業に従事する従業員に限るかで数値が変わるため、範囲を明記してください。
産業保健データに関する指標の算出方法

健診やストレスチェックのデータは、開示のために新しく測る必要がありません。産業保健業務は法令にもとづいて記録が残るため、既存の記録から指標を組み立てられます。
ただし、そのまま数えれば済むわけではありません。着手する前に次の5点を確認してください。
- 事業場規模:ストレスチェックは常時50人以上の事業場で義務、50人未満は努力義務です(2028年4月1日から50人未満も義務化されます)
- ・実施状況:努力義務の事業場では、実施していない年がありえます
- ・本人同意:ストレスチェックの個人結果は、本人の同意がなければ事業者は取得できません
- ・保存主体:記録を事業者が持つのか、実施機関や外部委託先が持つのかで、集計の可否が変わります
- ・集計権限:集団分析の結果を実施者から事業者へ提供する条件(10人の下限など)を満たしているか
この5点が確認できれば、あとは手元の記録を集計するだけで指標になります。
①すぐに数値化可能な指標:健康診断、ストレスチェック
健康診断の受診率
定期健康診断の受診率は、受診者数を対象者数で割ります。有所見率は、有所見者数を受診者数で割ります。
見落とされやすいのが、要再検査・要精密検査となった従業員の受診率です。受診が確認できた人数を、要再検査・要精密検査の対象者数で割って算出します。健診で異常が見つかった従業員が、実際に受診まで至ったかを示す指標です。定期健診の受診率が高くてもこの数値が低ければ、健診が結果に結びついていないことになります。
なお、要再検査・要精密検査後の受診率は公的な統一指標が存在しません。確認期間や対象範囲、確認方法等の定義を自社で明確に定めておく必要があります。
ストレスチェック受検率
ストレスチェック受検率は、受検者数を対象労働者数で割ります。高ストレス者率は、高ストレス判定者数を受検者数で割ります。選定基準や受検率が企業によって異なるため、他社間での単純比較は困難です。
ストレスチェックの実施は労働安全衛生法第66条の10にもとづく義務である一方、結果の集団ごとの集計・分析は労働安全衛生規則第52条の14にもとづく努力義務です。
そのため集団分析の実施率は、取り組みの深さを示す数値になります。ストレスチェックの集団分析の実施や活用方法については、以下の関連記事もご覧ください。
▼関連記事はコチラ
ストレスチェックの効果的な活用方法とは?集団分析のやり方や事例について解説
②産業医の関与で実効性が高まる指標:長時間労働者の面接指導実施率、復職率
ここから挙げる指標は、産業医の関与によって実効性が高まる指標です。
長時間労働者の面接指導実施率
長時間労働者の面接指導の対象者は、月80時間を超える時間外・休日労働を行い、かつ疲労の蓄積が認められる労働者で、本人の申出が起点になります。
申出があれば事業者に実施義務が生じ、申出がない場合も、月80時間超の時間外・休日労働を行った労働者については面接指導を実施するよう努めることとされています。
ここで注意が必要なのが、分母の設定です。義務と努力義務の二層構造になっているため、分母を申出者数にするか、月80時間超の該当者数にするかで数値の意味が変わります。
申出者数を分母にすれば「申し出た人にきちんと対応できているか」を示し、該当者数を分母にすれば「申出がない層にも手が届いているか」を示します。
後者のほうが数値は低く出ますが、踏み込んだ姿勢を示せます。両方を併記する形が最も誤解を招きません。
【長時間労働者の面接指導実施率の出し方】
| 分母にする指標 | 示せること |
| 面接指導の申出者数(義務) | 申し出た人にきちんと対応できているか |
| 月80時間超の該当者数(努力義務) | 申し出がない層にも手が届いているか |
現場のケースでは、健診とストレスチェックの数字は整っている一方で、面接指導の実施件数が記録として残っていない企業がみられます。面接指導記録が個別のメモにとどまり、集計できる形になっていないためです。
開示を前提に記録の様式を整えるところから着手する形が動きやすくなります。
参考:長時間労働者、高ストレス者の面接指導について(厚生労働省 こころの耳)
▼関連記事はコチラ
長時間労働者への医師による面接指導とは?流れや改正内容について解説
復職率と平均休職期間
復職率は、復職者数を休職終了者数で割ります。平均休職期間は、休職日数の合計を休職者数で割った数値です。どちらも法定の統一算出式は存在せず、この2つの指標だけで支援の質を十分に説明できるわけではありません。
休職率だけを開示すると、数値が低いほど良く見えます。しかし休職率と復職率を並べると、休職した従業員を復帰まで支えられているかどうかが伝わります。たとえば休職率が低いのに復職率も低い場合、休職という選択に至る前に離職している可能性があります。
休職率の低さが支援の成果なのか、それとも制度が使われていない結果なのかは、復職率と並べて初めて判断できます。
平均休職期間を添えると解像度が上がりますが、復職率と平均休職期間の2つの指標だけで支援の質を十分に説明できるわけではありません。復職率が「戻れたか」を、平均休職期間が「どれだけの期間を要したか」を表しますが、支援の実態や質をより正確に捉えるには、復職後の就業継続率や再休職率なども合わせた多角的な評価が必要です。
ここで産業医の関与が数値の説明力に関わります。復職率の高さだけを開示すると、復職を急がせた結果ではないかという読み方の余地が残ります。
産業医の意見は復職判定のプロセスの一部ですが、それ自体が支援の質の高さや施策の有効性を直接証明するものではありません。
なお復職の可否を最終的に決定するのは事業者です。産業医は医学的見地から意見を述べる立場にあたります。体制を説明する際に判断の主体を産業医と書くと役割の記述として不正確になるため、表現を確認してください。
そのほか、職場巡視の実施率や衛生委員会における産業医の出席率も、体制が形式で終わっていないことを示す数値です。
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健康分野の人的資本経営データを開示する際の注意点

算出方法が決まったら、そのまま開示できるかを3点で確認してください。業種による指定、指針に載っていない指標の扱い、そして部署別データの制約です。
注意点①:業種によって求められる指標が異なる
見落としやすいのが、SASBは77業種別に、重要となり得る開示トピックと指標を示している点です。
TRIRは以下の幅広い業種に割り当てられています。
- ・工事用資材
- ・鉄鋼製造
- ・石油及びガス
- ・農産物
- ・電気事業者
- ・エンジニアリング及び工事サービス
- ・廃棄物処理
- ・化学製品
- ・道路輸送
- ・鉄道輸送 など
一方で石炭事業や金属及び鉱業では「すべての事案率」、クルーズ会社や海上輸送では「休業災害度数率(LTIR)」、工事用資材では「珪肺症の報告症例数」と、業種ごとに求められる指標が変わります。
他社の開示事例を参考にする際は、まず同じ業種の企業を確認すると比較しやすくなります。ただし、SASBの業種別指標も自社にとっての重要性を判断した上で参照します。
注意点②:健診受診率やストレスチェック実施率はあくまで「裏付け」として開示する
よく紹介される健診受診率やストレスチェック実施率、メンタルヘルス休職率は、上記の開示事項の例には含まれていません。指針の本文でも、これらの語は使われていません。
実務上は有用な指標です。ただし「指針が示している項目」として社内や投資家に説明すると、根拠を問われたときに答えられません。
扱いとしては、開示事項の例にある「健康・安全関連取組等の説明」を裏づける材料として位置づけるのが望ましいでしょう。たとえば、健康施策の説明のなかで要再検査・要精密検査の受診率が改善した経緯を示す、といった使い方です。
指標そのものを主役にせず、取組の説明を支える数値として置いてください。
注意点③:部署別・事業場別データは再識別リスクを評価する
産業保健データを部署別に集計する場合は、法令上の制約があります。労働安全衛生法第104条は、心身の状態に関する情報を健康確保に必要な範囲内で収集し、その目的の範囲内で使用することを事業者に求めています。開示のための集計がこの範囲を超えていないかを確認してください。
具体的な下限が示されているのがストレスチェックの集団分析です。ストレスチェック指針は、集計・分析の単位が10人を下回る場合、対象となる全ての労働者の同意を取得しない限り、実施者は事業者に結果を提供してはならないと定めています。
また、下限である10人は在籍労働者数ではなく実際の受検者数でカウントします。たとえば、在籍が12人の課でも受検者が8人であれば提供できません。
ここで区別が必要です。外部公表を一律に全社集計へ限定する法令はありません。
10人という基準も、実施者から事業者へ結果を提供する場面のルールであって、外部公表の安全基準ではありません。
部署別・事業場別のデータは、少人数のセルや属性の組み合わせにより個人が特定・再識別されるリスクが存在します。開示に際してはリスクベースのアプローチを適用し、部署の統合、複数年の集計、小規模セルの非表示(マスキング)などの匿名化・加工技術を用いても再識別リスクを十分に低減できない場合は、全社単位などのより大きな集計単位で開示することが適切な判断となります。
なお10人未満の集団でも、個人を識別できない方法で集計し、衛生委員会等で事前に調査審議した場合には、事業者への提供が認められる例外があります。
このルールは今後2段階で影響が広がります。令和8年6月30日に公布された労働安全衛生規則の一部を改正する省令(令和8年厚生労働省令第112号)により、令和9年(2027年)4月1日から、集団分析を「特定の個人を識別することができない方法で」行うことが省令に明文化されます。
従来の解釈を明文化したもので運用の変更ではありませんが、施行通達は、個人を識別できる方法で集団分析を行うことは努力義務を履行したことにならず、プライバシー保護の観点からも許容されないとしています。
加えて令和10年(2028年)4月1日から、労働者数50人未満の事業場にもストレスチェックが義務化されます。小規模拠点が集計対象に加わるため、受検者数が10人を下回る拠点が増えます。上位の集団単位で集計する設計をあらかじめ決めておいてください。
投資家に伝わる指標の組み合わせ方

どの指標を組み合わせるかで、投資家に伝わる内容が変わります。判断の手がかりになるのは、健康課題による損失がどこで発生しているかという構造です。
2022年に就業者27,507人を対象として実施したインターネット調査を全国に外挿した研究では、仕事への影響が大きい健康課題として精神的不調または睡眠関連症状を挙げた人のデータに基づき、プレゼンティーズム約7.3兆円、アブセンティーズム約0.3兆円、計約7.6兆円(GDPの約1.1%)と試算されました。診断済み精神疾患による実測損失ではなく、自己記入式データと平均賃金等を用いた推計です。欠勤の原因疾患は特定されず、調査時点で長期休業中の人も対象外でした。
人的資本可視化指針(改訂版)付録③は、月経随伴症、更年期症状、婦人科がん、不妊治療の4領域について、欠勤・パフォーマンス低下・離職・休職等による労働生産性損失と追加採用費を合わせ、社会全体で年間約3.4兆円とする経済産業省事業の試算を紹介しています。不妊治療は男女双方に関係しますが、本試算では女性側の就労影響を算出しています。複数の調査と仮定を組み合わせた概算であり、個別企業の実損額を示すものではありません。
参考:内閣官房・金融庁・経済産業省「人的資本可視化指針(改訂版)付録③ 参考資料集」
参考(一次資料):Hara K, et al. “The Impact of Productivity Loss From Presenteeism and Absenteeism on Mental Health in Japan”(2025)/経済産業省「女性特有の健康課題による経済損失の試算と健康経営の必要性について」
なお、7.6兆円と3.4兆円の試算値は定義や推計方法が全く異なるため、単純に比較したり合算したりしないよう注意してください。
とくにメンタルヘルス関連では、損失の大半が「休んでいない従業員」の側で発生しています。
ここから、開示する指標の組み合わせ方が決まります。休職率や欠勤率だけを開示すると、損失の大半を占めるプレゼンティーズムが数値に表れません。高ストレス者率や有所見率は生産性損失の直接的な測定指標としてではなく、検証済みの測定尺度による直接計測を補う参考指標・補助的指標として使用してください。
この組み合わせが投資家に伝えるのは、健康施策の実施量ではありません。課題をどこまで早期に把握できているかです。
有所見率や高ストレス者率は、健診受診者やストレスチェック受検者における健康リスクの分布を示す補助指標です。個々の休職・欠勤の有無やプレゼンティーズム、生産性損失を直接示すものではありません。プレゼンティーズムを把握する場合は、目的に合う検証済み尺度で別途測定し、各指標の対象者・分母・定義を併記してください。
同じ理由で、復職率と平均休職期間も単独では支援の質を表しません。復職後6か月・12か月の就業継続率、再休職率、就業配慮の実施率と併せて評価してください。復職できたかどうかだけでは、復帰後に定着したかがわかりません。
国際的な開示基準が求める4つの要素のうち「リスク管理」に、健康指標が接続するのはこの部分です。健康の数字を経営戦略と結びつけるとは、施策の量を示すことではなく、把握できているリスクの範囲を示すことだと整理できます。
よくある質問

開示の設計段階で寄せられる質問を整理しました。
Q1. 人的資本経営の開示項目のうち健康分野では何を開示しますか。
A.人的資本可視化指針の付録②が挙げているのは、以下の7項目です。
- ・労働災害の種類、発生件数、割合、死亡数など
- ・安全衛生マネジメントシステム導入の有無と対象社員の説明
- ・労働災害関連の死亡率
- ・ニアミス発生率
- ・健康・安全関連取組等の説明
- ・研修関連
- ・損失時間や損失日数
具体的な指標としてTRIR(総記録災害度数率)やNMFR(ニアミス頻度率)が示されています。
Q2. 健診受診率やストレスチェック実施率は開示指標として使えますか。
A.これらの指標名は付録②の開示事項例には含まれていません。
ただし、自社の重要なリスク・機会や人材戦略との関係を説明できる場合は、企業固有の指標として開示を検討できます。
Q3. 部署別に健康データを開示しても問題ありませんか。
A.特定の個人を識別できないよう十分に集計・加工された統計情報について、外部公表を一律に全社集計へ限定する法令はありません。ただし、部署別・事業場別の数値は、少人数のセルや属性の組み合わせから個人が再識別されるおそれがあります。
部署統合、複数年集計、小規模セルの非表示等を行っても再識別リスクを十分に下げられない場合は、全社等のより大きな集計単位としてください。なお、ストレスチェックの集団分析結果を実施者から事業者へ提供する場合、現行指針では、実受検者が10人未満の集団でも、全員の同意がある場合または個人を特定するおそれのない方法を用いる場合には提供できます。2027年4月1日からは、人数にかかわらず、集団分析を特定の個人を識別できない方法で行うことが労働安全衛生規則に明記されます。これは従来の解釈を明文化するもので、従来の運用を変更するものではありません。
Q4. 産業医がいない企業でも健康分野の開示はできますか。
A.健診やストレスチェックの実施率、復職率、平均休職期間は、人事の記録から算出できます。産業医の関与は必須ではありません。
面接指導を行うのは、法令上「医師」です。産業医に限られず、外部の医師に依頼することもできます。労働者数50人未満の小規模事業場であれば、地域産業保健センターを利用する方法もあります。産業医が未選任であることだけを理由に、記録が生じないわけではありません。
復職率については、事業者が主治医や産業医等の意見を踏まえて最終判断する手順、就業上の配慮、復職後のフォロー体制を併記することで、数値の定義と運用背景を説明できます。ただし、産業医の関与自体が支援の有効性を証明するものではありません。
Q5. どこから着手すればよいですか。
A.SASBが77業種別に示している、重要となり得る開示トピックと指標を確認してください。自社にとっての重要性を判断した上で参照します。
そのうえで、手元にある記録から使えるものを拾い上げ、指標を算出する際の分母と分子の定義を固めてください。定義は初回に決めておかないと、前年比較ができなくなります。
Q6. 非上場企業でも対応は必要ですか。
A.有価証券報告書の提出義務がない企業は、本記事で扱った内閣府令の記載事項の対象外です。
ただし健康診断は労働安全衛生法上の義務です。ストレスチェックは常時50人以上の事業場で実施義務、50人未満は努力義務で、2028年4月1日から50人未満にも義務化されます。指標として集計する体制を整えておくと、採用時の情報発信や取引先からの要請に対応しやすくなります。
まとめ
人的資本経営の開示項目のうち健康分野について、一次情報をもとに整理しました。
健康分野は、記載する枠は用意されていますが指標は指定されていません。開示府令は人的資本に関する方針の例として「従業員の安全及び健康に関する方針等」を挙げる一方、健康・安全の独立した記載欄や特定指標の一律開示義務はありません
付録②は労働災害関連の指標等を例示しています。健診受診率やストレスチェック実施率の名称はありませんが、自社の重要なリスク・機会や人材戦略との関係を説明できる場合は、企業固有の指標として開示を検討できます
SASBは77業種別に、重要となり得る開示トピックと指標を示しています。自社の業種で挙げられている内容を確認し、自社にとっての重要性を判断した上で参照してください
指標を算出する際の分母の定義を初回に固めてください。長時間労働者への面接指導実施率は、申出者数を分母にするか月80時間超の該当者数を分母にするかで意味が変わります
特定の個人を識別できないよう十分に集計・加工された部署別の健康指標は、一律に外部公表が禁止されているわけではありません。ただし、再識別リスクを十分に下げられない場合は、全社等のより大きな集計単位としてください。ストレスチェックの集団分析結果を事業者へ提供する場合、現行指針では、実受検者10人未満でも、全員の同意がある場合または個人を特定するおそれのない方法を用いる場合には提供できます。2027年4月1日からは、人数にかかわらず、集団分析を特定の個人を識別できない方法で行うことが省令に明記されます。これは従来の解釈を明文化するもので、従来の運用を変更するものではありません。2028年4月1日からは、50人未満の事業場にもストレスチェックの実施義務が広がります。
開示項目の設計で手が止まるのは、指標が思いつかないからではありません。出所の分からない指標リストを埋めようとして、自社が持っているデータとの対応が取れなくなるためです。
健診結果は法令にもとづいて毎年発生します。ストレスチェックの集団分析は努力義務であり、面接指導の記録は実施した場合に作成されます。まず自社に何が残っているかを確認してください。手元にある記録から使えるものを拾い上げ、それが経営戦略のどこに効くのかを説明する順序に組み替えてみてください。
産業医や産業保健師の関与がある企業では、開示に使える指標の幅が広がります。メディカルリソースでは、産業医・産業保健師の選任から健康データの運用体制づくりまでを支援しており、開示を前提とした記録様式の整備についてもご相談いただけます。
自社の体制で何が出せるかを整理する段階でも、資料をご覧いただくところから始められます。
【記事監修】合同会社SUGAR 代表 佐藤将人
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